外が浜風<3>(青森から碇ヶ関、大館まで)

天明5年(1785年)真澄32歳の紀行文です。 


5月、秋田県湯沢を出発した真澄は、8月、岩館(八森町)から青森県西海岸を通り、深浦、鯵ヶ沢を通って五所川原まで旅します。「外が浜風1」 

そのあと五所川原から弘前をへて青森へ向かい、到着するまでの紀行を紹介しました。「外が浜風2」 


真澄は、青森から北海道へ向おうとしますが、松前からの悲惨な難民に会い断念、南下して矢立峠から大館に入るまでの最後の紀行を紹介します。


青森の湊
=真澄記= 
はるかに見えるは南部の岬(夏泊半島か?)、これは鵜曾礼山(津軽半島の恐山)、雲と波との間に松前の島、蝦夷の千島(北海道)がただよっている。 

(実際、青森から松前にわたるはままならず、西からの「くだり」という風を待って船出し、また「やませ」という風を待っていかなければからなかった。)

善知鳥安潟

善知鳥神社

=真澄記= 
安潟という町で、最近大火があったそうで仮小屋が立ち並んでいた。 
鳥頭(善知鳥)の宮という神社も火に焼かれたという。昔は「善千鳥(よしとどり)」「悪千鳥(あしちどり)」という鳥がこの浜に多く群れていたとか。今は影もない。 
「善知鳥安潟(うとうやすかた)」とはこの鳥のことか。「昔はこの鳥を獲って、武蔵の君に奉ったものだ。」と浦の翁が語ってくれた。

神社の善知鳥剥製



地逃げの群れに会う
=真澄記= 
蝦夷の人々の生活も見たいものだと、この海を渡ろうと三日ばかり様子をみていた。 
ある日湊に出てみれば、鍋かまを背負い、器という器を持って、幼い子供を抱えて、男女の区別もつかない様子でやってくる集団がある。「地逃げ」と言って、餓え人になることを恐れて逃げてきた者供だそうだ。 
この「物貰い(乞食)」の言うには、「蝦夷での生活に耐えかねて逃げてきた。松前では人の情けにすがって命ながらえたが、いつこのような情けに会うかわからない。今度はどこの誰に情けを受けて命永らえようか」となりわいの良い人を求めてさまよっているのだそうだ。 

「これはいかん」ということで、蝦夷行きは断念し、浜田、荒川を経て大豆坂(まめさか)を通って浪岡まで戻った。

浪岡にて飢饉の話を聞く

浪岡城跡

=真澄記= 
浪岡にきて、今日見たこと(地逃げの群れ)を話すと、主人もまた語ってくれた。

浪岡城跡


「この年も暮れるまでは何が起きるかわからない。ある村では去年一昨年まで馬を食って命を永らえてきた。家の数は80軒ばかりだが、馬の肉を食わない家は7~8軒もあろうか。 
大雪で死んだ馬を捨てておけば、あちこちから 菜きり包丁を持った髪も結ばない女が沢山集まってきて、血を滴らせて肉を切り取っていく。 
路上の犬の死骸を食べ歩く者などは、頬を赤く血に染まった顔をして、恐ろしい。」と 
わらびや葛の根も掘りつくし、あざみの葉、女郎花(おみなえし)を摘んで、これを蒸して食べている。 
宿にいても、様々な草をまな板の上できざむ音は、「きぬた」の音以上に涙をさそうものがある。


大鰐まで

鯖石付近

=真澄記= 
尾上から柏木、吹上を経て薬師堂村に来た。乳井村には甘露な白泉があった。毘沙門堂があって、少し上れば天狗平と言うところがあり、鈴石、石 弩(いしゆみ)、天狗の斧などがある。 
八幡館、鯖石という村を経て大道に出た。宿河原のおりて大鰐橋を右に見て進むといで湯がある。

宿河原大鰐橋から温泉街



大鰐を過ぎて

大鰐温泉

=真澄記= 
大鰐と近くの蔵館とく所にも湯がわいていて、湯浴みした。 
大日堂の前に萩の大樹がある。里人は「萩桂」と言っている。いわゆる小萩だ。 
本村、長嶺、九十九森、唐牛などの村を過ぎるが、今日も故郷を捨てて逃げる民を見た。

温泉石


かすべ料理(資料)

【かすべ】 
「かすべ」と言う干し物を、瓜・茄子と一緒に器に盛って、山子が山中に入っていく。樵のたぐいか。 
「かすべ」とは、王餘魚のたぐいで、エイの乾肉である。夏の頃、蝦夷人が獲り「秋味」として出荷するものだ。秋に来る松前船をもっぱら「あきあじ」と言うのは、「良き味」の意味もあろうか。鮭の潮干しもこの名がある。

かすべ(資料)



碇ヶ関から矢立峠

碇ヶ関跡

=真澄記= 
碇ヶ関に来た。「いかり石」という石があって、これを関の名としたそうだ。 
道の左右に、「白糸滝」「登滝」「無音滝」「日暮滝」「二見滝」とあって、折橋の番所を右の沢に降りると温泉がある。 
鬼湯だ(日景温泉か)。銀山を見つけた大人が入湯した故事が残っている。 
矢立峠の九曲を下りて、再び出羽の国「陣場」という所を経て「長走村」という山里で宿をとった。

矢立峠の日景温泉



飢饉悲話
=真澄記= 
卒塔婆に金輪をさして、飢死人を埋めている者がある。この者、涙流して「哀れ我が友皆逝ってしまう。あさましい世の中」と袖に涙がこぼれている。あわれと思い声をかけたら応えてくれた。 
「我らは馬を食い、人を食って命を永らえてきた。しかるにまた今年も風(やませ)にあい、穂にならぬ。もう陪堂(乞食)になってこのありさまだ。」 
「本当に馬・人を食ったのか?」と問えば、「本当だ。人も耳や鼻をそいでたびたび食べた。いけないことだから誰にも話さずにいたし、村人も隠している、あなたは尊い旅人、あちこちの様子も知っていよう。あなたに話せば罪の減ろうと思い話した。」 
この乞食、秋田路に行くというので、銭をとらせて別れた。

大館に来る
=真澄記= 
白沢、釈迦内を経て大館に来た。 
軒端にさなずら、あけび、真餅(普通の餅)、花餅(葛の根の餅)を並べて商っている。 
「食べねえ、休みねえ」との言葉に少し休んだ。 

大滝村には温泉があり、十二所の関を越えて沢尻という山中に宿をとった。降りしきる雨に夜半まで眠れなかった。