真澄と地理編纂

菅江真澄は秋田六郡の地誌を「雪・月・花」として 

"月の出羽路"には河辺・仙北の二郡、 

"雪の出羽路"には雄勝・平鹿の二郡、 

"花の出羽路秋田郡"については、「勝手の雄弓」「月のおろちね」「あさ日川」 「水のおもかげ」「をもの浦風」の五冊の日記を入れる。 

と考え、文化10年(1813)の春にその企画書ともいうべき"花の出羽路の目"を藩当局に提出しました。 

その内容は、「此いでわなる六の郡を月雪花になずらへてかき集は、三河の国乙見の里人菅江の真澄なり」というようなものでありました。 


しかし、この企画書は簡単に認可される内容ではありませんでした。 

地誌というような公的な文書が日記形式で綴られ、しかも他国の人が執筆するなど以ての外との意見が大勢を占めたようです。 

しかし、藩主義和の内々の許可が出て文化11年、藩内の名勝旧跡を写生する名目で雄勝郡に向かうことになりました。 こうして出来たのが"勝地臨毫雄勝郡"です。 


しかし、文化12年(1815)、藩主義和が、42歳の若さで急逝し、真澄の地誌編纂の希望は頓挫します。 


その後、真澄は地誌編纂の希望を捨てきれず、高階貞房、岡見知康等の協力を得て文政五年(1822)には許可の内命が出ました。 

実際、地誌編纂のため平鹿郡に出発したのは、文政7年、真澄71歳の時であり、亡くなる文政12年まで続きます。 


この間に完成したのは、 

"雪の出羽路平鹿郡" 14巻 (現在の横手市・平鹿郡をほぼカバー) 

"月の出羽路仙北郡" 25巻 (現在の大曲市・仙北郡をほぼカバー) 

で、これは明徳館に献納されました。