はしわの若葉<1>(大東町から田河津、正法寺、黒石寺)

天明6年(1786年)真澄33歳の紀行文です。 


旧暦4月~6月にかけて、岩手県一関市大東町(旧磐井郡)付近を散策します。 

大原の桜を愛で、田河津、正法寺、黒石寺に詣るまでを記します。


東磐井郡大原にて

大原の砂鉄川

=真澄記= 
4月1日、心待ちにしていた花をみようと、ここ大原の里、芳賀慶明の家にいる。 
新山川(にいやまがわ)という渓谷がある。濁川といい砂金を採ると言う。 
昔かけてあった橋はみな流されていて、遠く回らなければならない。 

<虫除けの呪い> 
この里から遠くない片山里に行った。萌え出る麻の畑に、薄花色の麻衣の老人が枯れ尾花を束ねて畑に挿して歩いている。麻につく虫除けの呪い(まじない)だと言う。
老人の家で休み、湯ずけの茶碗を持つと、時鳥(ほととぎす)が鳴いた。



<天幡(てんはた)を揚げる> 
4日、童が沢山この地方で言う天幡(てんはた)というものをこしらえる。いわゆる鯉幟(こぼり)だ。 
秋田の国は師走の末に揚げるし、三河の国は正月から五月まで揚げる。五月五日を風巾(タコ)節句を言う。「うるまの国」(琉球)では10月に揚げると言う。 
川岸の満開の大桜の木に糸を結び、遊んでいる。桜にツバメがさえずっているのも春の心地がする。人々は花見に興じている。

大原の農家の鯉のぼり



山吹柵・長泉寺・松井の滝

山吹柵の跡

=真澄記= 
6日、「松井と言うところに面白い滝があるから行こう」と誘われでかけた。 

途中、「山吹が柵」というところがあり、その下に杉の群生している所は国主「伊達吉村公」が誕生した館の跡である。

山吹柵から室根の山々


長泉寺(正面が亀峰山)

<長泉寺> 
「亀峰山長泉寺」という寺がある。住職は梅峰禅師という、我が父母の国三河の新城の人だ。 

山門の梅に佇めば、桜の枝に斑鳩(いかるが)が「ひじりこき」と鳴く。 
地方によっては「紅衣着(あけべこきい)」と言うところもあるという。信濃の諏訪では「斑鳩の蓑笠着(みのがさきい)」と言い、鳴けば雨が降ると言われている。

長泉寺の庭


<松井の滝> 

松井の滝に来た。水は岩で三つに分かれて堕ちている。巌の狭間に古い松が立っている。月出が平という山の麓に岩松山経蔵寺寺がある。

(松井の滝は現在河川改修のため水没している。)


猿沢の観音堂

=真澄記= 
花の盛りに心引かれ、大原を発つ。途中田の路に馬の毛を篠の長さに刺している。また藁を束ねて田のあぜごとに刺している。これは「しかおどし」と言うそうだ。

石清山観福寺

渋民を経て猿沢に来た。路の傍らに「観福寺」という寺がある。傍にの岩が高く群れ立っている。これに虹のように橋を架けて観音を安置している。 

お堂近く、岩の面々に阿羅漢尊者、仏菩薩の名を記し古歌を書いている。戯れだそうだ。苔蒸した岩の下には面像があると言う。昔からのことなのだろう。

傍の石群


<半行坂の糸巻石> 
「半行坂」という所がある。ここは「萩生の庄」であり「萩生坂」というのを誤っているのだろう。この坂のあたりに「骨石」またの名を「糸巻石」と言って、筆の管くらいの太さで、2、3寸または4、5寸の糸を引く時の紡車(いとぐるま)の管のようなものが採れる。ただ良いものは稀である。もともと奇品石(あやしのいし)であろう。


田河津

=真澄記= 
<田河津の神> 
このあたりは東山田河津といって、紙の産地で、家々はこの業の者だ。俳句の祖(松尾芭蕉)翁の「奥の細道」の日記は、この東山で漉いた紙を四つ折りにして書かれた。翁は「みちのくの紙」を愛でていたそうだ。

横沢(田河津)の集落

<横沢の鍾乳洞> 
見渡す峰の雲、麓の雲は皆桜だ。村々の垣根は山吹の色に埋もれ、夕暮れの陽炎はたぐいなきおもしろさだ。 
横沢という所に大きな窟があり、籠山と言う。内は広くて、鍾乳石がところどころに掛かっている。 
遠く桃の花も残っていて、桃源郷の絵を見ているようだ。

金鉱跡



正法寺参詣

正法寺

=真澄記= 
拈花山正法禅寺に参る。釈迦仏の誕生の日とて大衆居並んで「一日経」を読んでいる。ずいぶん古い寺だ。
庭に源頼朝公が植えた槲(かしわ)がある。また大きな庭があり「大梅捻花山」とも言う。 
境内に「石灰木石(いしわた)」<珪化木>がある。石朽、または黒蝋石(こくろうせき)と言い、このあたりを黒石の荘と呼ぶそうだ。

境内の蛇体石、奥が手植えの柏



黒石

黒石寺

=真澄記= 
<黒石寺> 
三内と言うところに出た。妙見山黒石寺という修験寺がある。もと太上神仙を祀る寺である。 
大同元年に斐陀の匠が集まって、一夜のうちに建てたという古い堂がある。板の敷居も渡さず、残っていないところもある。 
この寺には慈覚円仁大師の作とされる薬師仏を納めている寺だと言う。

妙見堂(再建)


黒石の郷

<黒石の郷> 
野路しばし歩いて黒石の郷に出た。 
路の傍らに東屋のような小屋を建て、その軒に銭2貫を縄に貫いて掛けてある。そして童、老人が居て、昼でも厳重に守っている。 
もしこれを盗られたら、親銭に小銭を沢山加えてその罪を償うのだという。これを「償(おいたみ)」というらしい。 
案内してくれた童はこの郷だというので、物を取らせて別れた。 
胆沢の郡に渡る加美川の舟はなかなか出ず、日暮れて乗った。


<正月祭事の奇習> 

正月8日の祭りは、祇園の削残や尾張の天道社の祭の如く、夕暮れより夜中まで誰とはなしに罵り合う。根も葉もない事に枝葉をつけて、さも事実のように罵って、笑い、堂を叩いて火を焚きつければ、積もった屋根の大雪も落ちると言う。 

長さ3.4尺の二重の長布の中に、蘇民将来の御神符を3・4寸の木に書いて入れ、袋には蝋を流して油を塗って、神武神仙の御前に備え、山伏ほら貝を吹いて経を読み、祈り加護して、その袋を群集の中に投げ入れる。 

群集は、素裸で褌もつけずに左右に分かれて、その袋を我がほうに取ろうと奪い合う。 

昔、袋の緒が褌の前下がりに絡んで、力任せにひかれたので、フグリが破れて死んだものがいるそうだ。それ以来、褌は努々身にまとわなくなったそうだ。 

この蘇民将来の神符をた掌得た者は、その年の田畑の実りがあるとされ、夜が白々となるまで、袋を掴み、破り、また取って雪を踏み、またはせ出て小河の氷を踏み破って淵に飛び込み身を潜め、またそれを曳き止めるなど、世にもめずらしい祭りだ。