天明5年(1785年)真澄32歳の紀行文です。
5月、秋田県湯沢を出発、横手、角館をへて、阿仁銅山を見て、萩形(上小阿仁村)を通り7月、久保田に吉川五明を訪問、男鹿半島を見ます。
8月、岩館(八森町)から津軽に入る。弘前をへて青森から松前に向おうとするが断念、矢立峠から大館に入ります。
ここでは、大間越から青森県西海岸を通り、深浦、鯵ヶ沢を通って五所川原までの紀行を紹介します。
合浦・木蓮子 |
木蓮子の海岸
=真澄記=
この社からは、みちの奥の国、耶麻郡東日流花輪の庄明石の組と言って、合浦という。
荒磯を伝わり、分け来て、木蓮子坂を下る。
鴛鴦(おしどり)石という名の岩がある。
「さざれ石の 幾夜契りてオシドリの なれる巌のすがたなるらん」
鴛鴦(おしどり)岩
黒崎 |
津梅川(つばいがわ)
=真澄記=
大間越を通り、津梅川を渡って黒崎という磯館の宿についた。
ここの海女は、海の水を汲み、高台に登って箕(み)に流し、貝釜に入れて塩を焼いている。
「塩は、磯にいる神の好意によるもの」と、みな貝を砕いて練り、釜としている。あまり見ない光景だ。
黒崎の風景
森山の岩々 |
森山の奇岩
=真澄記=
海の中に、いろいろな石立が並ぶところが面白く、魚突きの小舟にのって巡った。
大きな岩は皆、蜂のすみかのような穴があいていて、荒潮が入って「こぽこぽ」と鳴っている。
大波がくれば、それは恐ろしく、早々に舟から上がると、海岸には浜香という花咲いていて、良い匂であった。
森山城跡
深浦まで |
岩崎駅
=真澄記=
房田、浜中、岩崎、中山というところを通り、峠よりはるばると見渡せば、松前の島は、小笠のように、遠い。波にただよっている。
深浦という港について宿を求めた。
岩崎の風景
奥入瀬 |
奥入瀬の浜
=真澄記=
広戸を過ぎて、奥入瀬という浦があった。
山中に入り、一里あまり。観音堂があり、堂塔鬼作である。
山中体内潜を過ぎて岩洞の中の堂に、三十三体の観音が祀ってある。
岩山の観音堂
柳田・桜田まで |
風合瀬(かそうせ)の風景
=真澄記=
鳥居崎、風合瀬(かそうせ)、晴山を過ぎ、金が沢では雨がいよいよ強くなった。
暴風で、海に浮かぶ舟はみな柱だけ立てている。帆を張る舟は飛んでいくように行き、危なそうである。
沈みそうになる舟の舵とりはいかばか、と神に祈る気持ちであった。
柳田を過ぎ桜田に着いた。ここには桜明神といって、細長い石をいくつもささやかな祠に並べているが、いかなるゆえんか。
晴山の風景
明石川 |
風合瀬(かそうせ)の風景
=真澄記=
おりからの暴風雨で、明石川の水嵩が増して渡れない。川岸の牛嶋と言う苫屋に一夜を頼んだが許されず、宿をとった。 翌日、舟が沈んだという話が出て、昨日の舟かと気を揉んだ。
晴山の風景
=舟破れ、田畑荒れる=
このあたりは、どこの浦(海岸)でも多くの舟が沈み、人が死ぬなどは当たり前のようだ。また、風も強く、田の穂も(塩で)真っ白になって伏し、残る方が少ないありさま。それでも、この穂を舟の舳先(へさき)に取り付けて、懸命に働く。世と嘆き、皆うめいている。
鯵ヶ沢 |
鯵ヶ沢の岩木山
=真澄記=
ここでもいくつもの舟が沈んだようだ。
「積荷の宝を拾う」と言って小舟を乗り出し、長柄の鎌や熊手を持った人が、磯に輪を作っている。
今日は天気がいいが、ヤマセをいう風が吹いた。この頃の疲れに、風が心地よい。
雲の中に峰が見える。岩木山だ。
鯵ヶ沢港風景
床前(床舞)の惨状 |
飢饉は嘘のような今の床舞の田
=真澄記=
卯之木、床前(今の床舞)という村の小道に分け入ると、春先の雪がムラになって残るように、草むらに人の白骨が沢山散らばっている。また、うず高く積まれている。
額の穴に、ススキや女郎花が生出ているものもある。
床舞の街並み
見る心地もなく、拝んでいると、知らぬ人が「見たまえ、これは皆、飢え死にした人の屍だ。過年卯の年の冬から春にかけて、雪の中に倒れた者だ。今、こうやって道を塞ぎ、行きかう人は踏み越えて通うが、夜道ともなれば、過って骨を踏み、朽ちた腹に足を入れて、臭いもひどい有様だ。」と言う。
五所川原まで |
「嫁いびり民謡」で有名な相野
=真澄記=
死なば死ね、生きて憂き目の苦しさを思えば、、、とも思う。
彼らは藁(わら)をついて餅をして食べたり、葛蕨(わらび)の根を掘って食べ、今まで命を永らえてきた。
この年も昨年と同じ潮風に吹かれて、出来は良くないと村々の人は語っている。飢饉にならないことを祈りつつ村を去った。道行く家々はみな倒れ、或いは柱のみ建っていて忍びない。森田、山田、相野、木作(木造)、岩城川を越えて五所川原についた。
JR五能線「木造」駅舎