おろちね(迺遠呂智泥)には「月のおろちね」(月迺遠呂智泥)と「雪のおろちね」(雪迺遠呂智泥)があります。
共に文化9年(1812年) 59才の紀行文で、太平山について記されたものです。
「月のおろちね」(月迺遠呂智泥)は、7月に秋田市寺内を出発、天徳寺・濁川・添川をへて仁別川を上って吹切野へ出ます。
真澄一行は、山谷(やまや)村を出て、土佐の平村、野田村を経て東光庵と言う所に着きます。
皆は靴を脱ぎ、紐をほどいてしばし休みます。あるじの法師が水を汲んできて勧めます。
ここは御岳参りの人達が休む場所らしく、木枕が積んであり、これを取って肘掛にしながら時間を重ねています。
=真澄記=
嵯峨勝珍の丈夫(ますらお)三人は、飯などを炊いて、「これを峰まで」と持って来た。
さて、腹ごしらえをして、出立しよう。
中平の鳥居(野田登山口) |
=真澄記=
中平という所に鳥居がある。「太平山」の額は雪花齋国豊という人の手だと言う。
東方の傍に堂があって、千手観音の石像を祀っている。
=AKOmovie=
真澄は現在の太平野田登山口から登っています。
AKOもこの道をたどります。
現在の中の鳥居
あま池 |
=真澄記=
中大松澤を過ぎて、長瀬澤また杙(とんけ)渓というところがある。
この奥山に、あま池という大きなうなぎが棲む淵があったようで、「おろち」だったかもしれないと思った。
蔵王権現の舞台石と言うものがある。ここ最近まで、ここの大きな蛇がたむろしているのを、松原寺の眠堂和尚と言う人が経を読み退散させ、その跡に蔵王堂を建てた。
蔓(つる)が沢山生えて、一丈ばかりの岩がある。あやしい石である。
真澄:あま池
不動の滝 |
真澄:不動の滝
不動の滝
女人堂 |
真澄:女人堂
=真澄記=
寛政の年まで、女はここまで登ることを許された。
この始めは、新城の荘黒川村の讖玄(しんげん)法師と言われている。山谷村の新兵衛と言う者、讖玄法師に従って木を伐り、岩を割って山路を開き、橋を渡して往復して讖玄女人堂を作った。
また麓の東光庵を開き、讖玄が死んだ後も新兵衛法師となって女人堂を守った。
一人法師が住んだ後は、荒れるにまかせて、今は二尺に三尺のお堂があるだけで、石の無動尊が並べられている。
この堂の西に泉が湧いていて、みな寄り集まって飲んだ。
女人堂
弟子返り |
真澄:弟子返り
=真澄記=
日も暗くなった頃、弟子帰りと言う峰を通った。
いつの頃か、この山に師が弟子の担ぐ籠に乗ってここまで来たが、さすがにこの坂は登れず、坂の途中で師を降ろして弟子が帰ったことからこの名がついた。
弟子返り
太平山の山頂(大峰・太平山権現堂) |
真澄は日が暮れてから山頂に到着します。雨の暗がりで堂に詣で、垣間見える月を楽しみ、堂に泊まります。 =真澄記= 大峰についた。二間四方、高さ一丈五寸、東向きの太平山権現堂がある。隣に籠舎(ろうしゃ)もある。左右に大きなみてぐらを立てている。 かんざねは少彦名命ながら、薬師佛をもって太平山大権現と言う。 この山の形が龍に似ているので 大蛇山(おろちやま)とも言う。 頭は大峰、七峰に亘ってその尾に例えたのは蛇尾の原と言って蛇野のことである。野崎も昔は尾崎と言っていた。 <太平山の開闢> |
真澄:太平山権現堂
三吉神社奥宮山門
三吉神社奥宮
山頂から鳥海山の展望
<堂の宝物>=真澄記=
真澄:太平山権現堂宝物 |
太平山を降りる |
<木萩の大樹>=真澄記=
「はぎなり」は萩の大樹の林をことである。その萩はいわゆる木萩で、大きな臼となる木もある。
<木萩の縁起>=真澄記=
駿河の国には富士の鶴柴山のほとりに御殿場という村に、昔、右大将頼朝が野狩をしたとき、仮の館を人に頼んで作らせた。
そこには今でも地元の末裔が住んでいるが、その二本の柱は本当に大きな萩の木材だったらしい。
陸奥の津軽応安寺(大鰐町)の大日堂の前の道の傍らに、萩桂がある。昔は花がよく咲いていたが、今は木の中から朽ち果て、槻の宿り木お枝をさしている。
また、この秋田の小阿仁の羽根山という所の社の前に、大きな萩の木があったが、最近風に吹き折られて枯れたそうだ。
ここも面白いところだと、遠き近きを見た。
<逆木>=真澄記=
山の神渓というところを分け下れば大山神の社がある。 広い八代のの鳥居ごとに、木の枝の鈎(かぎ)を投げかけてある。
また、大きな黒木を三尺ばかり切って、斧で皮を立てて、それを沢山社の傍らに立ててある。
問えば、逆木と答えた。
祠の中には、斧、鈎、剣などを木で作って置いておる。 これは、山賊らが、山の神に「行く末」を願って奉ったものか。
真澄:木萩の大樹
真澄:逆木
真澄:逆木
<木曾石> |
下って長坂を越えて二別への分岐にきます。そこから蛇喰(じゃばみ)の炭焼所、小鷹滝、を通って木曾石澤に下ります。 |
三吉神社里宮
今に伝わる杉大木
仁別(木曾石)登山口
嵯峨家(目長崎)へ到着 |
木曾石で日暮れを迎えた真澄は、松明(たいまつ)の明かりで、蛍を見ながら闇路を巡ります。
舞鶴の城山、川原村、元町とくれば、道も広くなり、若い男女や童がいて安堵します。
=真澄記=
川瀬に降りて、重いわらぐつを脱ぎ、泥にまみれたひざ巻きを洗って嵯峨家の門をたたいた。
人々はこぞって辛い雨の夜道の物語をして、やや人心地を覚えて笑みも出た。
食事の間も笑いが絶えなかった。物を食ってお腹が張ればそのまま伏した。
=真澄記=
次の日は朝寝をして夕刻に目長崎を発った。また雨が降り出した。柳田村の長の家で雨宿りをした。雨はますます降りしきる。長は「こよいは泊まれ」というので一夜を明かした。
次の日は雨も止んで、「勝手の御弓」にも記した順路で手形山に登って眺望を楽しみ、寺内に帰った。