文政9年(1826年)(真澄73歳)春、「雪の出羽路平鹿郡」を完成した真澄は、「月の出羽路仙北郡」編纂のため仙北郡の巡村を開始します。
同年、面日、小種(以上協和町)、神宮寺(神岡町)で越年。
文政10年(1827年)(真澄74歳)、花館(大曲市)、外小友(南外村)、
文政11年(1828年)(真澄75歳)、六郷、板見内(仙北町)、野田(中仙町)で越年。
文政12年(1829年)(真澄76歳)、雲然(角館町)の後藤家にあり、6月:梅沢(田沢湖町)で病み、7月:十九日角館神明社で死去したとも、梅沢で死去し遺体が角館に運ばれたともいわれます。
ここでは、文政9年~10年、協和を巡り、大曲市周辺までの道のりを紹介します。
唐松神社(協和町境) |
=真澄記= この境の村の社は、息長足姫(おきながたらしひめ:神功皇后)を祀っている。安産の神で、祈るとその霊験が著しい神として、この出羽の国第一の産霊神(うぶすながみ)として、敬い奉っている。 「六郷祭事記」に「4月8日唐松権現祭、仙北の里にあり、別当修験光雲寺。安産の神也とて、六郷のみならず、遠方よりも女児参り湊う事群をなす。」とある。 <徳政夜話から> 元禄の頃、徳雲院殿(佐竹義処)の息女久姫という方が、筑前の国秋月の城主黒田隠岐守長乾公のもとにお興し入れになった。 宝永の頃、臨月となり、苦しみ、言うには、「私は出羽の国の仙北に、唐松の姫神が祀られていると聞いている。急いでこの神にお願いして、私の苦しみを助けてください。」とのことであった。 姫に仕える男女の家来が、身を清め、出羽の国の方に向かってぬかずき、姫の安産を祈った。このおかげで、久姫は男の子を安産したとのことである。 このお礼として、獅子頭を唐松山に奉納なされ、今もこの獅子頭は、平鹿・仙北の地を神遊びして舞めぐっている。 |
神岡 |
このあたりは、毎年正月五日鳥追いの行列が集落一戸づつ回って厄除けと幸福招来を祈ったとあります。 神岡の地方では、綱引きは廃れたようですが、刈和野では今でも大綱引きが行われます。 また、北樽楢岡には八沼一泉があったと言われますが、真澄が記録した「於由岐ケ池」「蛇神沼」も今は開田されて、跡はとどめていません。 <鳥追いと綱引き> <「於由岐ケ池」「蛇神沼」> |
岩倉温泉(外小友) |
真澄:岩倉温泉
真澄が外小友の地域で最も注目し、名に合う地として紹介しています。
=真澄記=
岩倉の湯、外小友の内湯本村にあり。眼病、腋臭、もろもろの瘡(かさ)、にきび、たむし、ひぜん(寄生虫による皮膚病)、こせ(瘡:こせがさ)、熱疝気のたぐいに功験(しるし)がある、、、
<岩倉温泉>
岩倉温泉
花妻橋(大曲) |
真澄:花妻橋
=真澄記=
花妻橋は昔たいそう大きく、目にあでやかな唐木であった。
花妻橋を渡って大曲の小路の鶉(うずら)町(現花園町)へ出る。昔は野原で鶉が多かったそうだ。
伝羅蛇山石地蔵大士堂があり、ここの杉は古木だが、いつも同じだと言われている。
雄物川が近く、川を隔てて西根、小友等の山々が見える。
真澄:花妻橋から鶉町
石造五重塔(大曲) |
=真澄記=
寛政(1789年)の末か享和(1801年)の初め、八幡神社を開いた時、土屋館の人々は隣の土地を均して八幡町(現丸の内町)という56丁の町を造った。
この時、あちこちから五輪の塔の破損したものを掘出し、これを組み立てたと言う。地座に発菩堤虎王丸と掘ってあった。
また梵字があり、その傍らに元享三年(1323)と彫ってあったと言う。
真澄:石造五重塔
花館の里の風俗(大曲) |
=真澄記=
四月はほととぎす、しでの田長を朝な夕なに呼ぶ。畑打ち、田を作り、杭を打つ。いずこも同じように見えるが、少しずつ異なっている。
五月は「さなぶり」、「さなぶりゆひや」と言って、小笛を鳴らし、田唄を歌い潤っている。
六月は田草を取り、休息にたばこをくゆらし、若者が相撲をとっている。これを「田の草すまふ(相撲)」と言う。
七月は田舎祭りで、牡獅子、牝獅子、兜獅子があって、唄い踊っている。
真澄:花館の里