文化七年(1810年)真澄57歳の紀行文です。
五城目町の谷地中を出発、小池・天瀬川・川尻・芦崎(八竜町)に至る。芦崎と能代を往復し、申川(若美町)から男鹿北磯に入り、真山に登ります。
出発したとき、対岸の芦崎に船で渡ろうと、漁師に船を頼みますが「忙しい」とにべもなく断られ、鯉川(琴丘町)、二つ森(山本町)と大きく迂回することになります。
はたしてどのような旅になることやら。
AKOもゆっくりの旅で、迷訳を紹介したいと思います。
鵜川の伊勢詣での家(山本郡八竜町) |
=真澄記= ある家の庭に、しめなわをめぐらし、四乳のわらじを家の方向に先を向けて置いてある。 足裏のあたる所に小石を乗せて、それに水をうち清めている。 これは庭中の阿須波の神に小柴をさして祀った古俗のたぐいで、家の主人が伊勢神宮に出たしるしであるとう。 |
大口の浦 |
真澄:大口の浦
=真澄記=
地蔵菩薩が松原堂の中に祀られている。
村に入って砂山に登り遠近の眺めがことのほか良い。
(大口の砂山と眺望)
大口の砂山と眺望
芦崎の姥御前社 |
=真澄記=
鶏を忌み嫌うのは、天瀬の浦と同じだ。 鶏の卵を抱いて持ってもも災いがあると言っている。
=AKOmovie記=
ここには手名鎚(てなずち)の神、天瀬の浦には脚名鎚(あしなずち)の神が祀られています。鶏を嫌うのは、八郎太郎の伝説に起因しているようです。 <八郎太郎伝説>
相川(合川) |
芦崎を出発した真澄は、半島北の大谷地・琴川・浜間口を通って北浦の相川に来ます。
=真澄記=
ここなん、真山、本山赤神山の、ふたつの峰を出る山川の奈落とて、合川という。 昔は染川とも言った。この川より赤神山に登った。
(相川に伝わる金勢(コンセイ)様)
真山 |
真澄:赤神山光飯寺
=真澄記=
麓になりぬ。村あり、真山と言う。寺あり、真山光飯寺という。
摩訶般若堂、金剛童子堂あり。
この堂のやなうらを一万三千の地蔵のかたしろを持って葺(ふ)いたり。
本山赤神社 |
真澄:真山薬師堂
=真澄記=
ここは本山の山頂赤神の嶽だ。石を積んで囲み、中に薬師如来の堂がある。
東は森良山、森山、寒風山が一つになって、八郎湖の中から突き出ているように見える。
戸賀の浦、根太島、鼻ケ崎、一の女潟などが良く見える。山陰に多くの鹿がいる。笹原の中を群れて一群で去っていった。
真山山頂から寒風山
この山は昔から鹿が多く、田ごとに縄網を張るが、網の目をくぐって稲を食べる。困ったことだ。 男鹿の名前もここからきているようだ。 <小鹿の介物語> <五社堂縁起> <五社堂999の石段> <赤神と黒神の戦い> |
本山
毛無山
滝川ダム
水口村(北浦水口) |
蟻塚長根
=真澄記=
山矢の坂を越える。北浦、野村、湯の尻などの家々が見える。
大平という広い野に古い陣屋の跡がある。
すこし行けば、「蟻塚ながね」という場所がある。
これは争いの跡に多くの折れた槍を埋め、塚にした所で、槍塚というのが本当らしい。
ひとっぺ澤というのがある。人頭骨が多くころがっている。
されば人頭澤と呼ぶのがほんとうであろう。
昔の柵の跡は左手の方にある。赤神の嶽の二つの峰も雲の中にあって高い。
大滝と旭桜 |
真澄:大滝
=真澄記=
真山より落ちる大滝という所がある。
仰ぎ見れば石の梁が虹のようによこたう中から水が落ちる様は、世に例えるものがない美しさである。
左右には八重や一重の白い桜が青葉さす木々の中に混じって、これもまた美しい。
昔ここに紅がことさらに美しい八重桜があったが、石梁を越えてくる雪解けの増水で根ごと落ちて枯れてしまったそうだ。
今ここに咲いていたらどんなに良かっただろうと供の翁と残念そうに語った。
一の女潟・二の女潟 |
=真澄記= 鍬台山と言う峡谷を分け出でて、蓼(たで)沼の平より二の女潟を望む。 渡賀の浦の根太島、塩戸のはなれ磯にある宮島などが見える。 再び大平に戻って一の目潟を見る。 水の面は広くて、深さは計り知れない。岸に赤石が一つあって、八郎太郎の霊を祀っている祠があった。 鯔(ぼら)などの魚が多くいるようだ。 |
真澄:一の女潟
一の女潟
真澄:二の女潟
二の女潟
寝地蔵 |
=真澄記= 善安寺の満開の桜を愛でて、鹿子田を出ると、寝地蔵という碑がある。 これは雨乞いの時立てて田の泥を塗ると言う。 そのけがれを清めようと雨が降るのだそうだ。 |
湯元温泉 |
=AKOmovie= 真澄は旅の最後をして湯元温泉に立ち寄ります。今でいう「男鹿温泉」です。 「湯の味は金属的で緑礬(酸化鉄)の気がある」と記しています。 ここに来たのは単に休息だけではなく、妙見堂に詣でるためでもあったようです。 |
<妙見堂>(妙見堂は北斗七星を祀り、修験者亀尾山常楽院の別当と言われています。現在の星辻神社です。) =真澄記= 奥に観音菩薩を祀っている。 「ここは大同年間、坂上田村麻呂が祀ったという古い宮所だが、元禄に落雷して焼失してしまった。 慶安五年(1652年)に再建したが享和二年(1802年)にまた落雷して、秋田城介實季が奉納した来光定の太刀なども焼失してしまった。」 と別当亀尾山長福寺常楽院の乙峯が話してくれた。 この亀尾山の仁王は朽木のように立っており、鐘楼は寛文年間のもので、昔の洪鐘は焼けてしまったのだそうだ。 古い五倫石や碑があるが、文字は全く見えない。 |
真澄:妙見堂(星辻神社)
妙見堂(星辻神社)
妙見堂(星辻神社)