天明4年9月、真澄31歳の時、羽越の境の念珠ケ関に泊まり、北進して鶴岡に入って羽黒山に参拝します。
更に最上川を下り、酒田・吹浦・象潟・本荘・矢島を経て山を越え、雄勝郡に達し、湯沢の柳田村の草氏方にしばらく逗留しながら年越しをしています。
真澄は秋田の方言や雪国生活、春になっての花実などを仔細に描いて興味深々です。
現在は秋田県の紹介にとどめます。現在、旅の最中です。一つずつアップしていきたいと思います。
慈覚大師堂(三崎山) |
三崎山
=真澄記=
酒田から持ってきた手形をあらためて、吹浦の関を通った。鳥崎の浜、瀧の浦を通り、女鹿(めが)の関になって手形を渡し、椿が茂る岩を下って三崎坂に来た。
慈覚大師の御堂は、もがさ(痘瘡ほうそう)、麻疹(はしか)から守るとして、子や孫のため沢山の人が詣って、うずくまっている。
三崎山海岸
この御堂の下には、手遅れになった人の屍が沢山あって、今はその上に岩を落として見えないようにしているそうだ。世にも恐ろしいものだと語り伝えている。
坂の中ほどには慈覚大師の御足跡として、面が蓮が開いたようみ見える石を、人々が指差して通り過ぎていく。
関村 |
関
=真澄記=
川袋という浜を経て関村に来た。この関村こそ、いにしえの「うやむやの関」だろう。
三崎山の地獄谷のあたりにあったとは、人の言い過ちではないか。
小川二つ渡って右の方に岡がある。白砂のこの高いところは鳥耶杜(とやもり)と言うそうで、「とやとや鳥のうやむやの関」なのだろう。
<うやむやの関由来>
関の古峰神社
汐越 |
汐越付近
=真澄記=
橋の上から島がいくつも見える。通行人は「八十八潟九十九杜と言う。
干満珠寺の西の「袖かけ松」のあたりに行けば、風の音が騒がしく、あられや雨も降ってきた。
目に入る島々はみんな曇って、紅葉の色だけが薄く残っている。
汐越の島
象潟の島々 |
真澄:象潟から鳥海山
真澄は象潟で数日雨と風にたたられますが、それでも合間をぬって島々を巡ります。
今は海岸の隆起で、真澄が見た海に浮かぶ島々の面影はありません。
田の中に浮かぶ小山を見て、当時を偲ぶしかないのですが、象潟の町はそれでも静かにたたずんでいます。
<象潟の島巡り>
島々からの鳥海山
蚶満寺 |
蚶満寺山門
蚶満寺
飛村 |
飛の海岸
=真澄記=
汐越を出て「飛」というところに来た。昔、陸奥の「塩釜」のひとつが飛んできたとして、今神とあがめて村も「飛」としたそうだ。
沖の飛島が波間に浮かんでいる。
波間に浮かぶ飛島
あまはぎ(海土剥) |
=真澄記=
河に橋がかかっている。水が少なく、砂が多い河だが、これを渡ろうとして足を入れれば、沼田のように深く入って、多くの旅人が命を失ったそうだ。
もし渡ろうとするなら、土地の詳しい人を案内にたてるべしと言われたそうだ。
また、ここには塩を焼くところがあり、土地の名がわかる。
矢島道中 |
真澄は雪が降る悪天候で、汐越からの山越えを避け、本荘付近砂子坂・梅田(埋田)玉ノ池・黒澤・前郷・小菅野を回って矢島に入りました。 雪道がいやで6里の道を12里歩いたことになりますが、途中は紅葉の絶景などもあり、飽きない旅だったようです。 |
本荘市内を眺望
玉ノ池八幡宮
相川(鮎川)。昔は渡しがあった
黒沢の駅
前郷の神明社
小菅野の鳥海山
矢島 |
山道を行く |
真澄は雪が降る悪天候で幾度も足止めに合いながら、山を越え、舟に乗って進みます。
見るだに恐ろしい谷を、人の手に助けられながら越え、きこりから道を教えられながらたむろ澤村に着きます。
左は基点となる伏見の鳥海川、右は八木山峠からの鳥海山
<雪の八木山越え>
西馬音内・三輪神社と雄勝の方言 |
柳田・草氏に逗留 |
冬の雄勝の子供たち |
真澄:かまくら(粉本稿)
雪深い雄勝の里の子供達も元気いっぱいです。
=真澄記=
「はきぞり」といって、二尺の細い木に綱をつけて、首からかけて軒ひさしの上からいくたびも下って遊ぶ。
犬が高雪をつたって屋根へ上れば、子供もはせ上る。
屋より高く雪を積んで、大きな穴を掘り、その中で笹のともし火を炊いて、色んな話をする「かまくら」で遊んでいる。
夜になって「きどころ寝」(服を着たままのうたた寝)をし、親に「せやみ起きろ、風をひくぞ」と叱られている。
かまくら