文化8年(1811年)真澄58歳の紀行文です。
秋田市金足を中心とした紀行文です。
旧家の記録など多くの図絵を残しています。
この後、真澄は久保田に住む、高階貞房を知り、藩主佐竹義和から秋田六郡の探訪の許可を得ることとなります。
金足/岩瀬(軒の山吹) |
=真澄記=
三月二十四日は天神を祀る日だ。夕方餅をついて玉にして、長串に刺して供えている。
山吹を折って、母屋をはじめ、柴屋、米蔵、厠の軒まで、あらゆる軒にびっしりと刺している。昔からのこのあたりの慣わしのようだ。
岩瀬地区の旧家
=AKOmovie=
この風習も、昭和30年代までは残っていたそうですが、トタン屋根とブロック塀の進出で、山吹を葺く風習はすたれたそうです。
岩瀬地区
雌潟雄潟(奈良家) |
現在も残る旧奈良家住宅
=真澄記=
小泉村の長(おさ)の奈良家にいる知り合い(茂木云々)を訪ねた。
雌沼雄沼(雌潟雄潟)の二つの大池がある。
水に臨む家は風情がある。
友と語らって更けてしまったので、泊まった。
付近の雄潟(雄沼)
沖/沖の松 |
真澄:龍毛の松
=真澄記=
この辺は龍毛と言う。沖村という所に澤井重助の屋敷がある。
大同(806~810)に建てられた古い建物だが、貧しい暮らしのために壊しては売り、今は一見の土間でささやかな住居となっている。
昔はつつじの梁や萩の柱などもあったと伝えられる。
上龍毛に年を経た松がって、根元に八幡様を祀っている。この松の枯れるのはいつのことであろうか。
豊川龍毛地区の旧家
豊川虻川 |
=真澄記=
いつの頃か、八幡の御神を守って、やんごとなき都人が法師の姿でこの澤井の家で休んだ。二月九日で、田でもソリを曳いていた頃で、なべの白粥をその都人に勧めた。
都人はそれは喜んで、食べようとしたが、箸がない。自ら雪垣の萱を折って、食べながら休んでいるうちに、連れていた馬が、馳せて淵に入って失せてしまった。
真澄:虻川の池
その淵はたちまち池となり、馬につけてあった鐙(あぶみ)だけが流れでていた。
その池は龍馬の池と呼ばれるようにり、その土地は鐙川(あぶみかわ)転じて虻川となったそうだ。
鐙川も今は田となり畑となって、ところどころに古川やため池があるばかりだ。
豊川虻川から太平山を見る
虻川神明社 |
=真澄記=
承応・明暦(1652~58)の頃、藩主義隆(二代)が別荘をこの地に作り、しばしば訪れた。
ある時、鷺が田の面で餌をあさっているのを見て、射ようとしたが、矢ごろが遠いのでためらった。
そこで、道の傍にあったささやかな杜に幣を捧げて、矢を討つと射止められた。
「この神は?」と尋ねられたので、「伊勢神宮を遷した杜です。」と言うと、義隆は早速立派な杜として作り変えられ、自ら三本の槻を植えられたと言う。
豊川虻川神明社
新城/岩城城址 |
=真澄記= 下箇枝(下向:しもがえ)の橋を渡って新城の庄岩城に来た。昔ここに岩城右衛門大夫康信という主の城の主があった。 麓に吉祥山福城寺という臨済があって菩提寺になっている。 この城山は高くはないが、四方の眺めはよく、土崎の湊に泊っている船の帆まで見渡せる。 |
澄:上箇枝の橋
真澄:下箇枝の橋
真澄:岩城城址
真澄:岩城城址からの展望
上箇枝の橋
下箇枝の橋
岩城城址の神社
岩城城址
岩城城から土崎湊を見る
吉祥山福城寺
新城/子鶴の池 |
新城/子鶴の池付近?
=真澄記=
広野のように草の茂っているところがある。ところどころ水が見える。
その野原のような所は、大池で、鶴が沢山群れて餌をあさり、雛をそだてたところだそうだ。
人々は、番人を置いてそれを守らせたそうだ。そこの名を「子鶴の池」と言って今も呼んでいる。
この水はめぐって八橋に至ると言う。
豊川虻川神明社