文化四年(1807年)真澄54歳の紀行文です。
この年、真澄は岩館を出発、八森・峰浜を経て能代の大柄の滝を見て、米代川沿いに鹿角へときました。
このあと、小坂を経て十和田湖へ向かいます。
雪沢を出て |
=真澄記= 小玉という峠がある。烏帽子山あるいは母爺(茂谷山)がそびえ立っている。 坂上田村麻呂が蝦夷へ軍を向けたところと言われる。 外側の川には、かつて一位大坊という大男の都人が住んだという大坊岳がそびえている。 |
瀬田石 |
=真澄記= これは蝦夷言葉で「世多伊世似」ということである。。 「世多」は犬のことで、「伊世似」は石のことを言うそうだ。 そのためでもあろうか、狗が伏せたような石がここにあったそうだ。ここも蝦夷が住んだ山里と知れる。 |
毛馬内 |
=真澄記= 手裡剱川(汁毛川)を渡って毛布(けふ)の郡、鹿角の庄、毛馬内の里に着いた。 「毛馬」は足を言い、「内」は沢を言う言葉で、足沢ということか。 鎌、篠の竹炭、けしの霰などを売る宿がある。しかし、津軽の黒石の大谷家の五色霰(あられ)に比べると、いささか劣るようだ。 酒殿がある。月ごとに三日市が立ち、里人は豊かに暮らしているようだ。 |