雪の陸奥雪の出羽路(岩館から八森、能代、秋田へ)

享和1年(1801年)真澄48歳の紀行文です。 

青森の深浦(西津軽郡)にいた真澄は、一路秋田へと向かいます。 
11月の日本海の旅路は、寄せる厳寒の波間でハタハタ漁をする漁師の姿におどろき、八郎潟の東を通って年の暮れに久保田(秋田)に到着します。


岩館のハタハタ漁

=真澄記= 
ハタハタの網引きと言って、沢山の小舟が出て、荒れ狂う磯の大波の中を乗りまわっている。 
岸辺の岩の上では、男や女が群がって立ち、「あっちだ」「こっちだ」と手を振り、波に体をぬらしながら叫んで、魚群のいる場所を教えている。 
秋田の北浦やこの辺は多く捕れるので、男鹿鰰、八森神魚(ハタハタ)と呼んでいる。

十月半ば頃から魚津間(とれずま)と言って、いつも波しぶき。 
沖にはごろごろと必ず雷が鳴る。これを「いわつめ」と言う。魚集(いおあつめ)と言う意味だろうか。 
雷を「はたはた神」と言うのはこの魚から起こったのだろうか、雷のなる頃捕れる魚なのでそう言ったのだろうか。 
鰰(ハタハタ)には黒めす、白めす、霰(あられ)形、黄肌、小金肌と言って五種類ある。 

真澄:岩館の浦

岩館の浜

魚網には、起し網、小曳網、投げ網、すくい網の五種類ある。 
すくい網は五尋ばかりの柄がついた網で、荒磯の岩の上にこれを持ってた立ち、寄ってきた魚を昼夜を問わずすくう。 
漁の最盛期には、磯辺に魚が山をなし、村はずれには徴税の役人をおいて馬の荷を改めるなど、たいそう賑わいなかなか見ものである。

今は静かな岩館の磯



立岩

=真澄記= 
立岩と言って、ふり仰ぐような高い岩がある。越の国根矢の鉾楯に似ている。



立石村/雄嶋

=真澄記= 
立石村では「雷子(ぶりこ)」(はたはたの卵)を拾おうと、大勢の女が浜に出ている。 しばし遠くに離れ磯のように見えるのを雄島と言う。この嶋の中に清い泉があると言う。

真澄:ぶりこを拾う海女

真澄:雄島

雄島



八森/松源院

=真澄記= 
昔河堂村に寶塔寺があったが、天慶七年大地震で埋もれて、村人はここに居を移し、森が八あったので「八森」とした。 
この時の寶塔寺が松源院である。 
左手の奥に大滝がある。瀧の頭に小祠があって紫銅の不動がある。朽木のように立っている。

真澄:大滝と不動尊

大滝と不動尊

松原院



米代川渡り

向能代の徳昌寺

=真澄記= 
向能代から米代川を渡る。 

この水は陸奥鹿角の七時雨山の雫が水を集め米代川となって能代に注ぐ。 今は危ないこの渡しも、冬ともなれば厚氷の上を雪舟に米を乗せて曳いて渡ると言う。 
能代の港で舟を降り、河端町(河反町)に出た。

能代にそそぐ米代川



能代

般若山から能代の町

=真澄記= 
かつて、ここは野代と言っていた。最近になって能代と言い改めた。 
昔は小楯岬(はな)に村があり、鰯で栄えていた。ここを元能代と言う。 
弘冶二年に清水河内政吉が、城介寛季に仕え野代に移って家居軒を連ねた。 
ここを親町として大町と言った。 
元禄七年に、地震で多くの家が倒れ沢山の人が死んだ。 
その十年後の寶永二年にまたも自身で家が倒れ、多くの人が泣き惑った。 
「これはあさましい世だ。」と越前谷久衛門と言う人が能代と言おうということになった。 
能代の寺社



砂留の松林(風の松原)

風の松原

=真澄記= 
昔は西風が少し吹いても砂が舞い、家ごとの窓に入ってうっとうしいものだったそうだ。 

宝暦の頃、ここに住む白坂新九郎、鈴木助七郎の二名の武士が、公の許しを得て大勢の人を促して松を植えさせた。まるで般若山の尾を引くように。 
これで風が四方に立っても、砂吹雪にはならなかったそうだ。

風の松原



鹿渡の浦

鹿渡と八郎潟

=真澄記= 
ここは昔「鹿ノ渡リ」と言った。 
建久の正月、泰衡の家臣で大川治郎兼任が七千騎で鎌倉軍に立ち向かった。 
志賀の渡しで氷が破れ、五千人もの人が溺れ死んだ。
兼任も追われて陸奥に落ち、栗原寺のほとりで山賊に斧で射殺されたと言う。

鹿渡八幡神社



鯉川の浦

鯉川

=真澄記= 
昔、さすらいの君がここに来た時、この川で鯉を捕って献上した。 
「これは、北の国などには無い魚だ。珍しい。」と言って喜びひとしおで「鯉川と呼ぶべし」とのおさたであった。

JR鯉川駅



御倉鼻(みくらばな)

御倉鼻

=真澄記= 
坂中に休めば、湖水が広く、男鹿の赤神岳や寒風山が寒そうだ。 
「この山陰に夫殿(脚名鎚)の窟と泉がある髪水と言うそうだ。 

芦崎に姥御前の社に手名鎚がある。水を隔てて夫婦が二柱祀られている。

脚名鎚の神社



一日市(馬場目川)

馬場目川

=真澄記= 
やや大きな川の舟渡りをした。 
この川は、馬場の目の奥山、あるいは山内川もひとつに落ち合って、「五城の目」を経て湖に流れ入る。

五城目に見える森山



土崎(湊城跡)

土崎の湊城跡

=真澄記= 
土崎の神明にきた。ここは「湊の館」という城跡だ。
津軽十三湊の阿部氏が治めたが、秋田城介實季の頃、甥の土崎九郎に逆意あるとして攻められた。 
=AKOmovie記= 
1500年代に安東氏の居城であった。慶長七年(1602年)秋田入りした佐竹氏によって、廃城となった。

隣接する神明社



寺内

古四王社

=真澄記= 
寺内村に来た。ここは古四王社はじめ古い話も多く、再度ここに来てゆっくり尋ねてみたいものだ。 

 

油田と言うところに来た。ここから出る「石脳油」を煙にして墨を作る人がいる。 あまり良い品ではない。

油田の一本松



久保田(秋田)に着く

=真澄記= 
鉄砲町の高橋云々に宿を求めた。隣の軒先まで雪が積もっている。 

師走二九日、年の市を見ようと出た。 
家々の軒端に仮小屋を作って、セリ・青菜・芋・ユリ・鮭子などを売っている。 
あぶりこ・火箸・鍋・皿なども並べている 

中には、雪を坂のようにならして、その上に楓のもみじ・山椒・よもぎなどを並べて、木、草を乾かして整え、並べている。 
三世の仏の花を雪の上に並べて、春の色になっているのも良いながめである。

 

真澄:年の市