文化十一年(1814年)真澄は東成瀬村桧山台に滞在し栗駒山に行っています。
これは「雪の出羽路雄勝郡」の地誌の取材でしたが 、合わせて「駒形日記」も書いています。
この日記は半分で終わっています。その後、仙台領に入り栗駒山に登って栗駒神社に参拝もしたようですが、詳細はわかりません。
桧山台 |
=真澄記=
この村は陸奥駒形山(栗駒山)の麓、出羽の馬草山(秣岳)のこなたにある。西には足倉岳があり、谷底のような山里である。
<朴ノ木台>
葉月十九日、高橋某のもとを出て、朴ノ木台(ホオのきだい)という萱原を行く。 昔、人麻麿が「みちのくの栗駒山の朴ノ木の枕はあれど君が手まくら」とある。この朴ノ木もここから出たものか。
<酢川の流れ>
真澄:桧山台
赤滝神社(東成瀬村) |
=真澄記= 脚倉山を右に假立鳥居(かったてとりい)という二門の鳥居を西に下れば「赤滝」という赤茶けた水の滝が落ちている。赤滝明神も鎮座している。 水上は赤川の流れであろう。木々が深く紅葉してきれいだ。 赤滝神社に絵馬が一つかかっていて、根子村某と書いてある。由利郡矢島の根子村の人か、秋田郡阿仁の根子村の人だろうかと見ていた。 |
真澄:赤滝
赤滝
赤滝神社
こおろぎ坂 |
=真澄記=
同じ道に小蟋蟀(ここおろぎ)坂とか、大蟋蟀(おおこおろぎ)坂というのがある。蟋蟀の背に似た岩山だからだろう。 「こおろぎ」はきりぎりすや馬追いもこおろぎと言うところがある。
<こおろぎ談>
=真澄記=
「蟋蟀」、「こほろぎ」、南部にて「きりぎりす」、また「ころころし」と言う。 江戸では「こをろぎ」と言う。 武蔵府中のあたり、信濃、奥州南部で「きりぎりす」と言う。 越後高田あたりでは「つづれさせ」と言い、美作では「きりご」と言う。
白石翁曰く、
「是古に言うきりぎりすなり。昔「こおろぎ」と言ったのは今は、「いとど」である。また、昔「いねつきこまろ」と言ったのは、今は「いなご」と言う。また「いなごまろ」と言うのは今の「はたはた」である。また、昔「はたおりめ」というのは今は「きりぎりす」である。いづれも小児が籠で養うものである。」
山神の花立 |
=真澄記= 山坂登って休むと、朽木あるいは木の根など「山神の花立」と言って、木の小枝を折って人ことにさしてある。小坂の上、山の峠ごとにある。 暗くなってきた。木々を分け入って笹の道を行くと、一杯寒泉と言って凍るような清水があった。一杯飲んで寒さを身に覚えるからその名がついたものか。 <山神の花立・山はげみ> |
真澄:山の神「大山神社」
山の神「大山神社」
今も神に小枝をさしてある
赤川の石 |
この上流が須川温泉
=真澄記=
大谷地の道を行くと下って赤川をいう川を渡った。石がみな朽葉のように黄ばんで、流れる水もその色に染まっている。
この水が赤滝になって落ちるのだろう。陸奥田名郡の海辺にも赤川という川があって、同じ色で流れていた。岸辺の山は梢が染めなしてきれいだ。
須川温泉の流れ
須川温泉 |
須川温泉
=AKOmovie=
真澄の記録にはありませんが、きっと須川温泉、駒ケ岳山頂へと旅したのでしょう。
真澄の残した「勝地臨毫雄勝郡」の図絵集に模様がでています。
須川温泉神社
真澄:須川温泉
真澄:須川温泉
真澄:駒形神社